抹茶碗

今まで摺物アルバム用に選んできた版画は、ほどんどが美術品として作られてきた作品でした。趣味人の間で交換するために依頼した物や本の挿し絵など、それ自体が芸術品でした。でも、こうして美術作品ばかりを集めてしまうと、歴史的な観点から見た場合に片寄ったコレクションになってしまいます。なぜなら、古い時代の木版は、美術の技法とはみなされていなかったからです。木版画は単に印刷技法であって、現代の私達が、本・新聞・パンフレット・包装紙などを、各種の印刷製品とみなすのと同じ扱いをされていました。大切なのは用いられた技法ではなく、内容だったのです。ですから、収集作品の均衡が取れていないことをお伝えし、歴史的観点から見て「別の側」にある版画を復刻する時期です。ここにある作品は、ある特定の「像」を私達に伝えるために、木版画が単なる手段として使われた例です。

今日私達は、映像―それも自然な色で実物と見紛うほどの美しい絵―の洪水の中に暮らしているので、私達の祖先の時代には、ほとんどの人にとって「絵」が珍しい存在であった、ということを忘れがちです。写真などなく、それを印刷して配る技術もなかった時代には、遠くにある物を「見る」方法などあり得ませんでした。本物を見る機会がなければ、どのような物かを想像するしかなかったのです。

単なる例えですが、茶道具に興味のある人がいたとします。その人は、茶器に関しては中々の通で、機会があれば必ず見せてもらうようにしていました。ある時、徳川家所蔵の抹茶碗について耳にします。でも、実際にどのようなものか見るなどということは叶わない話だったことでしょう。写真が発明される以前の時代には「縁がない」と諦めるしかなかったのです。でも、明治維新後に国が開かれると、知識を広めたいという強い渇望が人々の中に出てきます。そして、このようなことには我慢ができず、なんとかして本物そっくりの絵が見たいと思うようになったのです。

当時の発行者が、それまで木版画で可能とされていた限界をもうひと押しして、この要求に応える道を見い出したのは、この開国後の時でした。伝統的な浮世絵の版画は透過性のある色でぼかしもなく、描写する対象を正確に写そうとはしていません。でも、ぼかしの手法を幅広く駆使し、色版の数も多くすることにより、はるかに実物に近い絵を摺ることができるようになったのです。

こうした新技術の発達と、それを瞬く間に消し去ってしまった機械印刷技術の到来の間にあったほんの「束の間」に、目を見張るように優れた木版画が作られたのです。ここにあるのは、そういった版画で作られた「大日本美術図版」という本からの絵ですが、この本には、とても古い時代から封建制度の終わりに至る時代の、幅広い品が掲載されています。この抹茶碗の場合は、2方向から描写されていて、全体像の分かる一般的な視点から捉えたこの絵と、作者の刻印を見る事のできる真下からの描写があります。99%本物を見ているのに近いと請け合えるほど、完璧なまでに画かれています!

私の目からすると(皆様にとってもそうであって欲しいのですが)、こちらの方が写真より数段も好ましく感じられます。色調と言い、深みと言い、平板な印刷では捕らえることのできない質感までも感じる事ができます。それなのに、写真が印刷できるようになると、人々は「近代的」な方式に飛びついてしまい、このような本はそっちのけにされてしまいました。当時の人達にしてみれば、写真はもっと本物らしく見えたことでしょう。分かるような気はしますが、それでも、この移行で失ったものは大きいと思えるのです...

こういった古い書物からの掘り出し物も、もっと摺物アルバムに加えていくつもりです。漆塗りの硯箱、一対の豪華な襖、繊細な彫りと銀を埋め込んだ装飾のなつめ、などなど。美しい物ばかりなのに、時間が足りません!

デービッド

平成15年10月