恵比寿と大黒

これは魚屋北渓の絵ですが、この丸の中に七福神全員のスペースはないので、二人だけで我慢していただかなくてはなりません。恵比寿様の後には釣り竿と魚籠に入った鯛があり、大黒様は袋一杯の宝物の前で打出の小槌を振り上げて踊っています。二人だけでは願い事の全部は叶えてもらえないと思われるかもしれないので、北渓は背景に宝尽くしの紋様を加えています。それは、姿を隠す「隠れ蓑」と「隠れ笠」・知恵の象徴である「巻き物」・「金嚢」と言われる巾着・芳香を漂わす「丁字」・四方から転じた「七宝」です。これでも足りませんか?そうですねえ、紋様を100回以上も繰り返しているのですから、きっとご利益がありますよ!

今回私は、この「ご利益」全てを賜りたい気分でした!この作品に取りかかって、自分が至難の技に挑戦していることに気付いたからです。それは、今まで経験した事の無い程、繊細に彫らなくてはならないということでした。こんなことは、書かない方がいいのかもしれませんね、コンサートの時にピアニストが聴衆に向かって、「この曲を弾いた、卓越した指の技法はいかがでしたか?」などということは聞きませんからね。でもですよ、ピアニストにとって「指の訓練」と「演奏」は別の物ですが、私にとっては区別がありません。練習もなく、ぶっつけで演奏するしかないのです。毎月「ステージに上がって」版画を作り始めるのです。どんな出来になるか確信の持てないまま、最善を尽くすのみ...

私自身は、最近の作品の出来映えにかなり満足をしているのですが、版画に関わっている人たちから繰り返し言われて、気持ちの挫かれるような声があります。それは、摺師や彫師、それから、私の材料を調達してくださっている方達からも聞かされてきました。問いかけは、色々な言い回しでなされますが、その意味は「君はこんな小さな作品しか作らないのかい?」「いつになったらもっと大きな作品を作るのかい?」「本物の版画を作りたくないのかい?」といったところです。

中でも、伝統木版画の摺師にはこういった考え方をする人が多く、広重・歌磨・北斎などの作品に多い浮世絵の標準サイズとなっている「錦版」が作れるようにならないと、一人前の摺師とは見なさないのです。初心者は小さな版画(葉書などのような)から始め、腕を上げるに従い、階段を登るように、だんだん大きな作品が摺れるようになると考えるのです。

今から何代か前までの職人の間では、これが普通の考え方としてまかり通ってきました。過去百年の間、錦版は復刻産業の主要商品で、摺師達にたくさんの良い仕事を提供してきたからです。でも、もっと時代を遡って明治・江戸の頃は、「大きい=優れている」という図式は成り立っていなかったのです。先月の長谷川版がその最たる例で、極めて繊細に作られていて、大きさは全般的に小さめでした。そして私がこのシリーズを始める閃きを得た本来の「摺物」では、その反対の等式「小さい=優れている」が成立しているのです。ですから、現代の摺師達が私に、いつになったら「本格的」な作品を作るのかと聞くのは、幾分考えが甘いのではと思うのです。きっと、版画にまつわる歴史をあまり御存じないのでしょう....

もうひとつ、心当たりの理由として、こういった摺師達のほとんどが現役の時に、私の摺物アルバムにあるような版画は作られなかったということがあげられます。錦版が人目を引いて流行したせいもありますが、もっと根本的な理由はおそらく経済性でしょう。今回の作品は、たくさん彫る所があり、そのほとんどはとても細かくてとにかく時間が掛かりました。色摺りの回数も多く(金属粉も使っています)、墨版は高価なツゲを使っています。ですから、掛かった費用はかなりのものですが、出来上がりは小さいので、一般の人はあまり高い額を払わないのです。その結果、こういった類いの作品はずうっと以前に市場から消え、現在活躍している摺師達のほとんどは、こんな版画を見た事もないのです。ましてや作る機会など、なかったことでしょう。

収集家のみなさん、私が細部にばかりこだわり続けるのではないかと、心配なさらないでくださいよ、その絵の中にある釣り糸よりも細い線を彫ろうなどということは、あまり意味がないという事は分かっていますから。大丈夫、自分自身の腕試しとして挑戦しながらも、作品自体の美しさや意味は、きちんと考えて版画を作るようにしていますから。安心してくださいね、来月の版画は、鑑賞するのに虫眼鏡など要りませんから!

平成14年10月

デービッド