市川団十郎

「摺物アルバム」を始めて4年目、歌舞伎の版画が今まで入っていなかったとは!浮世絵の中では、役者絵が、一番の人気を得た分野であったことを考えると、私が怠慢だったのかもしれません。でも、力強さと躍動感のあるこの作品が、私の見落としを十分に償ってくれると思います! ここに役者の名前がなくとも、歌舞伎のことを少しでも知っている人なら、自分が見ているのは誰なのか、一目瞭然でしょう。同心上に並んだ大きな正方形の紋から、市川団十郎であることは疑う余地がないのですから。浮世絵の研究者の間では、この人物は初代の団十郎なのか、あるいは2代目なのか、意見の分かれる所で、これは絵の作者についても同様、見解が2分しています。つまり、これは清信の作という人と、清倍の作という人とが....

私としては、そんな詳細はどうでも良いのです。その時代の人達の事など皆目分からないのですから、どんな名前の人がこの絵を描いたことになろうと、たいして意味のあることではないのです。大切なのは、仕事場に腰を下ろして筆を取りあげ、ささっと穂先を走らせ、単純ではあるけれど、とてつもなく生き生きとした傑作をつくり出す、そんな人物が過去に居た、ということなのです。

私がこの版画を作る時にも「ささっと穂先を走らせ」ました、と言いたい所なのですが!私は例によって、これを制作している時も、インターネット・ウエブカメラで実況の画像を送っていました。すると、何人かの友達から同じような質問を受けました。「デービッド、一体何をやってんだい?摺らないで、色塗りをしているのは、どういうこと?」そうなんです、御覧になっている版画の色は、色版を摺るという、いつものやり方とは違い、直接筆で塗ったものなのです。なにも、版画作りを諦めたわけではありませんよ。これはただ単に、この作品が、まだ色摺りの技術がない頃の1700年代初期にできた作品だからなのです。これは、丹絵と言って、墨線の所は普通に彫って摺りますが、色の部分は後から筆で塗っています。

これを復刻する時には、当然のことながら、原作と同じ手法を守りました。始める時から、たっぷりひと月はかかるだろうと覚悟はしていたものの、ひと色ずつ筆で塗っていく作業は、実際、摺るよりも遥かに時間を要しました。丹絵の多くは、かなり荒っぽく速成作りですから、色はあちこちではみ出しています。でも、私がこの復刻に使った版画は、かなり丁寧にできていたので、完璧とはいかないまでも、色塗りは、ほぼ墨線の内側に収まっています。そんな訳で、私の方もその水準を守らなくてはならず、成りゆきとして長距離走になってしまいました。

絵の具の方も、できるだけ、原作で使われたと思える物を使いました。黄色には石黄、赤には本物の丹です。この色は両方とも、時間と共に変化して、最初の数カ月が過ぎるだけでもこの絵の持ち味は変わって来ます。ですから、あまり時間の経たない内に、もっと良い色合いになってくるのが確かめられるはずです。

こういった絵の具は、硫黄・ヒ素・鉛など、毒性の強い物質も含んでいます。でも、だからといって、絵を持っていると危険、などという心配はありません。毒素が、紙から空中に出るようなことはないからです。でも、使用する私の方は、必要以上にこういった絵の具に自分を曝さないよう、幾分かの注意は、する必要がありました。今回用いたような絵の具は、もう一般の店で購入できなくなっているので、手に入れるのがとても難しく、他の摺師に少し頂いた物があって幸運でした。

この版画も、良い経験になりました。こうして一歩一歩、たくさんの伝統版画の手法の全てに馴染んできています。では、ほとんど制覇した?とんでもない!まだまだ研鑽の道、先は何十年と続きます!

平成14年7月

デービッド