童と牛

この絵は、おそらく御覧になったことがないでしょう。そして、絵師の名前も聞いた事がないのでは....。署名(可笑斎春扇)から察っして、18世紀末、勝川春章の門をくぐったあまたの中のひとりであることは、まず間違いないでしょう。私は江戸時代の作品を持っていますが、それは中央に折り目があって端にはのりの跡もあるので、たぶん裏を張り合わせて作られた歌集から抜き出した一枚だと思います。

牛の背は、岸の柳の糸たれて
みどり吹きそう風の竹笛

摺物にはいつも歌が付いていて、この作品にも様々な暗喩が溢れんばかりに折り込まれています。こういった物を読む手助けをしてくださる紳士が、近所におられるのですが、彼によると「牛の背は」は「牛の世話」と掛けていて、..... お聞きしても、私にはあまり良くわからないのです。

今、版画は皆様のお手元にありますが、ここに辿り着くまでの、ちょっとした冒険談があります。前回のカラスの作品の時、ふたつの版を作ったということを書きましたが、今度も同じようなことになったのです。それはつまり、この版画を2回作ったということです。今回は、自分の意志とは裏腹に...。

版木に関して、「百人一首シリーズ」の時はすべて山桜にしていたのですが、「摺物アルバム」になってからは、とても細かな部分(顔など)に黄楊を入れて使っています。黄楊の木はあまり太くなりませんから、全面をこの木にすることはできず、絵の中の特に細かな部分にだけ、小さい板を埋め込んできました。このやり方はとてもうまくいって、物凄く細かな彫り − 山桜の板ではできないような − を可能にしています。

今回の版画では、版木を準備する段階で、ちょっとした行き詰まりがありました。絵の中には3人の顔があって、それぞれ髪の毛がとても細かく彫られています。そして、もしもそこに別々の黄楊を埋め込むと、出来上がった時に、まず間違いなく境目が分ってしまうような配置になっているのです。ですから私は、絵のある部分全面に、何本かの細長い黄楊の木を埋め込むことにしました。こうして版木を準備し、可能な限り表面を滑らかにし、それからが彫りです。作業は順調で、髪の毛の繊細な線も、今までのどの仕事にも劣らない程の出来栄えでした。彫り上がった版木は一週間以上もかけた仕事で、じっくり眺めては、我ながら良くできたと満足したほどです。

そしてその5分後、最初の試し摺りをすると、それまでの誇りは一瞬にして消え失せてしまったのです。はめ込んだ黄楊の一本が、両端のものより多く水分を含んだために、高さにズレができていました。摺ることはおよそ不可能、そして修正のしようもないという、完全に使い物にならない版木になっていたのです。

どうすればいいのでしょう?道はだたひとつ....いちからのやり直しです。もう一度版下を作って再度準備段階から開始です。でも今度は、安定した版木が自分に準備できるなどという自信はなく、ここ数年山桜の版木をお願いしている松村さんに、黄楊だけの版木を作っていただくことにしました。彼は、確信が持てないという理由で、なかなか首を縦に振らなかったのですが、無理を押して、とうとう試みてもらうことになりました。それから数日、版木が届くと、版下を貼付けて作業の再開です。

同じ絵を彫るのはとても妙な気分で、何かこう、デジャビユの感覚を続けているような思いでした。と同時に、昔の彫師がどんな感覚で仕事をしていたのか、ということが良く分るようになったです。当時は、同じ作品を何回も彫るということは良くあることでしたから -- たとえば、広重の有名な絵などは、別の版元からの依頼もあったでしょうから。私の場合、作品はすべて自分が選んでいますから、そういった経験は一度もなかったのです。

では、2度目はつまらなかったでしょうか?それが全然そうではありませんでした。私は彫りが好きで、黄楊の版木に彫るのはとても気分が良く、繰り返しであってもどうということはありませんでした。では、2度目はもっと上手に彫れたでしょうか?さあ、どうでしょうか、2枚の試し摺りを較べてみても、大きな違いは見当たりません。作品は、ほぼ最初に思い画いていた通りにできていますし、3つの顔はとても精密にできていて、.....

ところが、今度はこのことが問題点となっていました。極く細かい部分は、彫台に取り付けた拡大鏡を使って仕事をしているのですが、出来上がった版画を見ると、そこに髪の毛があることは分るものの、細かすぎて自分の目では見えないのです。レンズのなかった時代、彫師達は一体どうしたのでしょうか!

でも、皆さんには、この作品がはっきり「見え」ますよね!

デービッド

平成13年11月