立ち姿

いつものように2枚目の作品は美人画で、今年はちょっと特別に、皆さんも良く目にする浮世絵の懐月堂派による作品です。この派の絵師達については、ほとんど知られていませんが、手持ちの参考文献には、彼等がどんな人達だったか、そしていつ作品が作られたのかということにつて、相い矛盾する情報がたくさん書かれています。この懐月堂派によって製作された作品は、ほとんどが巻き物形式ですが、数十作品は版画としても残されているということが知られています。この絵は懐月堂度繁どはんの作で、もっとも妥当な説は1710年代の初期と思われます。署名は「日本戯畫懐月末葉度繁図」(にほんぎがかいげつまつようどはんず)としるしています。

この時代にはまだ多色摺りがなかったので、これは丹絵という、墨の一色摺に筆で手彩色をした一枚絵でした。御覧の作品は、もちろんすべて摺りで仕上げてあり、大正時代の復刻版をもとにしています。

私は日本に住む西洋人なので、このような版画を両方の文化的視点から見ことができるために、その観点の違いにはしょっちゅう驚いています。西洋人の側からの意見は要約が簡単で、「懐月堂の版画は浮世絵のもっとも優れた業績のひとつで、浮世絵そのものは最も優れた世界的芸術のひとつとみなせる」ということになります。懐月堂の作品がオークションに出るなどということは極めて稀なことで、そんな時、蒐集家達はそれこそ躍起になって競(せ)り落とそうと競います。それほど、日本の版画全ての中でも、のどから手が出るほど欲しがられるのです。

一方日本の側では、幾分事情が違ってきます。懐月堂という名前がほとんど知られていないばかりでなく、浮世絵そのものが最高級の芸術としては見なされていません。そういった上等の地位には、書道、焼き物、能、そして茶道が納まっているのです。日本で一番の芸術品と言えば、おそらく年代物の茶器などで、木版画などは論外となります。

近年、こうした傾向は幾分和らいできています。長年にわたる外国からの幅広い評価が、しだいに浮世絵の価値を高めて、今日では一般の人達からも芸術として受け入れられるまでになりました。でも、日本の伝統文花の通と称する人達が、そのんな考え方をまるで受け入れないことは歴然としています。床の間に浮世絵を飾るなどという行為は、そういった人からは、もってのほかとみなされるでしょう。

私自身は、どちらかというと、そのようなことにはかなり単純な見解を持っています。浮世絵の「格」とか、日本の社会における自分の地位、などということには、まるで関心がありません。実際のところ、浮世絵版画の「格が低い」ということは、私がこの国に住む上でむしろ好都合だったのです。東京にいる私の知人で、もう何年も伝統的な琵琶を習っている人がいて、彼から家元制度のことを聞くと、自分がそういったことから無縁でいられることを幸運だと、つくづく実感します。彼のすることは、一から十まで事細かに決められ、指示もなされていて、どんな逸脱も許されません。演奏会に参加できる機会などほとんどなく、演奏曲について意見を述べるなどということはほとんどできないか、まるでできないかなのです。そしてもちろん、級が上がる度に、かなりの額をお礼金として納め、このお金は順に上層部へと流れていくのです。正直に言って、伝統木版画が同じような仕組みになっていたら、私には1年だって、ここ日本で続けてこられなかったでしょう。

そんな訳ですから、みなさんが御覧になっている版画が「高度な芸術」として認められていないからといって、悲しいなどということはまるでないのです。そこに書かれている「戯画」という言葉は、「遊びで描いた絵」という意味で、おそらく、通常描く絵から切り離して考えているということを闇に示しているのです。作者は道楽半分で、「低く格付けされる絵」を描いたのかもしれませんが、そんなつもりの作品であると言うことをみんなに知らせたくもあったのです。

それにしても、私は「遊びで描いた絵」という表現が気に入っています。そして、(ひたすら楽しんで版画を作っている)私の場合、自分の作る版画すべてにこれを書いた方がいいのかも知れません!

平成13年5月

デービッド