早春の富士

 昨年の「摺物アルバム」を御覧になった方の中に、木版画に詳しく、しかも言葉使いに潔癖な人がおられたら、摺物という言葉の使い方に疑問をお持ちになったかもしれません。なぜなら、十枚のうち本来の摺物という分類に所属するのは2枚だけで、その他は本の挿し絵や宣伝用に摺られた作品を使っているからです。でも、私は摺物という言葉に自分流の定義をしています。「美しくて手頃な大きさの、個人が出版した木版画」という風にです。けれども今年は、もともと摺物として作られた作品の数を増やしていくつもりです。その手始めが、この早春の富士の眺めです。これは、1830年代初期に魚屋北渓 ( ととや ほっけい ) によって描かれています。

この名前に使われている漢字を御覧になってお気付きかもしれませんが、北渓は葛飾北斎の門下生のひとりです。彼の作品は摺物と絵本がほとんどで、役者や美人を対象としなかったために、今日ではほとんど知られていません。手許にある参考文献によると、「百册以上もの出版にかかわり、その他千枚にも上る摺物の絵を描いたであろう」というのです。千枚もの摺物です!北渓はきっと、これから後の摺物アルバムにも登場することでしょう。

私は、この作品の初版は持っていないのですが、明治時代に再生された版の物を持っていて、ここにある復刻版はそれを元に製作しました。書かれている歌は、柳栄子糸長 (りゅうえいこ いとなが) という人の作で

「雲の上にのぼる 心地でうれしきは 雪にみあへる 不二の福慶」

と詠まれています。

もうお気付きだと思いますが、この絵には、ちょっと特色のある色使いをしているところがあります。そう、2ヵ所にふつうの顔料でなく金属の粉を用いたのです。江戸時代に作られた摺物は、ほとんどが商業目的ではない個人出版です。ですから依頼する人は採算など微塵も考えずに、できる限り美しい物にするための金銭を惜しまなかったのです。その結果、この作品のように、ちょっと特殊でより高価な材料を用いて作られるということが多く行われていました。私は、かなり以前から金属粉の使い方を試してみたいと思っていたので、この作品はその良い機会でした。富士の麓に沿って流れる雲には「青銅の粉」を用い、頂上の銀色に輝く雪には「錫の粉」を用いています。

これは復刻版ですが、今皆さんが見ておられる作品と明治の物とには、大きな違いがある事を言い添えて置かなくてはなりません。お寺の鐘はここで使ったのと同じ青銅でできていますが、こんな風に明るく光っているのを見た事がありますか。おそらくないと思うのです。ここに使った青銅粉も、時が経つにつれて徐々に酸化して暗緑色を帯びた青さびに変化していきます。心配ですか?私からすれば、まるで違います。というのは、明治時代に作られた版画が今はとても美しいからです。青銅がほぼ完全に酸化しているというだけでなく、和紙自体も自然老化して暖かみが出てきているからです。私が作った作品よりも、随分と感じ良く思えます。でも、これだって、できたばかりの時は、私の作った作品と同じように光沢を持ち真新しかったはずなのです。

ここで、私のように古い作品の復刻をする者がいつも思い悩む事があります。それは、できたての時と同じ様にするか、あるいは何年も経って古くなったその状態の様にするか、どちらにするかという事です。でも、もしも私が意図的に金属を酸化させたり、お茶に浸けて灼けた様にしたら、皆さんはあまり良い気持ちがしないだろうと思うのです。もしこんな風に、人為的な老化をさせたら、今から本当に百年たった時に一体どうなってしまうのでしょう。きれいとは言い難くなると思いますが...。ですから、昔の職人がしたのと同じように、自然に時の経つのを待つのが無難でしょう。皆さんはできたてのホヤホヤを味わい、お孫さん達が古くなった状態を味わうというのです。

今年も版画の製作には意欲を燃やしています。皆様に喜んで頂けるような魅力ある作品を作るよう、努力を惜しまない所存です。そして、この企画への御参加を心から感謝申し上げます。

平成12年3月

デービッド