赤とんぼ

先月の作品を御覧になった後では、摺物アルバムに季節感を考慮しているなどとは思えなかったでしょうね。夏の終わりに蓮の花が入っていたのですから。今月は「秋」の雰囲気のある絵で軌道修正です。

この絵の作者は喜多川歌磨です。この作品は、1788年から1790年にかけて作られた、自然をテーマとした絵入狂歌本の最初の作品です。最初は昆虫を主題とし、次に貝を選び、その次には鳥の生態を描いています。このような本は今ではとても珍しく、また小さくて壊れ易いためにとても展示しにくいのです。その結果、彼の最も優れた業績の一部がこうして埋もれたままになり、あまり知られていないのです。

ちょっと誇張し過ぎだと思われるかも知れませんが、この絵入狂歌本は、おそらく人の手で作られた物の中では世界的にみても史上まれなほど美しい作品だと思います。初版を手に取って、そのふわりとした軽やかさや繊細さ、そしてため息の出るほど巧妙な彫りや摺りを目の当たりにしたら、きっと納得なさることでしょう。

この本はひとりの人が作ったのではなく、たくさんの専門家の技術を総集めしてできた作品です。絵師、彫師、摺師、和紙職人、版木職人、などなどきりがありません。この本の版元は、当時名を馳せた蔦屋重三郎で、その本の仕上がりにしっかりした考えを持っていたので、こういった職人達に、あらん限りの手を尽くして良いものを作るよう注文しました。その結果、この世のものとは思えないほど素晴らしい本ができた訳です。

今皆さんが手にしている作品は、この絵入狂歌本のほんのいちページからの抜き出しで、原作の良さを伝えるには明らかに不十分ですが、今の私にはこれで精一杯なのです。きっといつの日か、もう10年くらい修行を積んだら、この秀作の中の一冊全てを完全復刻のできる腕前になると思いますが......。

この作品の製作には、まだ試した事のないの摺りの技術が必要で、腕試しの良い機会でした。まず、絵の背景に砂子がちりばめてあります。これは書道用の紙にはよくありますが、版画では珍しいものです。そこで、友人の小室久さんに請い、金を用いる装飾方法を教えてもらいました。もうひとつの特殊技術は、とんぼの羽に用いた雲母の使い方です。これはとても効果的で、試し摺りの一枚目を見た時には、紙の中からとんぼが飛び出して来るかと思えるほど、まるで本物のようでした。

こういったキラキラする材料を使うのには、ちょっと複雑な思いがあります。ともすると、安っぽくなるからです。でも、摺物には金、銀、真鍮、銅など、粉末状の金属を使っているものが多いので、要は頃合の判断にあるようです。使い過ぎないよう、的確な場所に適量だけを....。

原本では、ひとつひとつの昆虫は歌と組みになっています。この歌の作者は歌磨と交友の深かった朱楽菅江(あけらかんこう)で、彼の歌は歌磨の他の本にも載っています。

しのふより聲こそたてね赤蜻蛉
とのかおもひに痩ひこけても

江戸の中期、この本を買った人達は当然、歌の好きな好事家達で、絵も歌も両方を重要視していました。でも私達は、時の流れと共に歌の持つ微妙な意味合いや背景が薄れてしまった文化の中に暮らしているので、歌は文字として描かれた視覚的対象で、絵の一部として見ているのです。

ですから、菅江にとっては、この作品の復刻など何の意味もないでしょう。でも歌磨の方は、自分の作品に再び生気を与えられてきっと喜んでいると思うんですが......。

平成11年9月

デービッド