静穏

今回はちょっと、いろどりが豊富です! この絵は 1867 年に柴田是真によって描かれたもので、狂歌の興画連が、会の創設者である花月居士の3回忌ににちなんで出版した「くまなき影」という本の口絵に使われていました。

これはおそらく、歌人の(それも、明らかに金持ちの)家の2階にある部屋なのでしょう。畳の上には読みかけの本が散らばっていて、目一杯大きく開かれた窓からは、海の眺めが見事です。床の間には香炉が置かれ、上の方の棚を見ると、紙束の上に塗り箱が置かれていて、その中には硯と筆が入っています。歌が読めたら、いつでも書き留められるように...... また、床の間に掛かっている掛け軸にある写し絵の人は花月居士で、これは梅崕高明の作を用いています。

この絵にただよう平和な静けさは、1867 年(慶應3年)当時の社会情勢を考えると、実に対照的です。江戸幕府が滅んで大政奉還が実施された、正に激動の年ですから。

150 年前にこの版画を作った人達は、これが難しいなどとは思わなかったことでしょうが、私から見れば大違いです。いままで取り組んだ作品の難物中の難物に属します。一般に浮世絵の場合、色と色を隔てる輪郭線の太さが、たいてい1ミリ位はあるのです。ですから、色を摺る時に多少のずれがあっても、濃い墨の線の中にずれの部分が隠れてしまい、「見当」にゆとりがあります。けれどもこの作品の場合、色と色の境界線として彫ってある線は髪の毛ほどの太さしかありません。(原画は絵本版で、見開きの2ページに渡っていますが、このシリーズのために半分の大きさに縮小してあります)ということは、色摺りのときには見当が完璧に合っていなければならないのです。寸分の「あそび」もなく、ごまかしが許されません。この版画の色摺りは、全て、こんなふうにきっちりと合わせなければならず、なんとそれが計19 回ありました。

19 回摺りの版画を200 枚仕上げるとなると、当然かなりの時間が掛かります。おまけに、今年の9月は例年以上に暑くてじめじめしていますから黴が生えないようにするのはなかなか大変です。以前にも書いたことですが、作業をしない間、紙は冷蔵庫の中に入れておくことにしています。この版画の場合も、2週間近くの間、毎 晩冷蔵庫の中に入ってもらったのです。でも今回は、もっと冷たいところに入ってもらう結果になってしまいました。

摺りに入って2日ほどした時です、穂高連峰に行かないかという、予期しない誘いがあったのです。好天が続きそうだし、ピークが過ぎて山小屋も混んでいないようです。高い山に行ける時期はそう長くはないし、この機会を逃したら暫く行けなくなるかも.....。どうしても行きたい.... でも摺り始めちゃったし..... 冷蔵庫の中に入れたとしても、時間が長ければ黴びてきちゃうだろうし.... 解決策? ある!

やりかけの版画を湿った新聞紙の間に挟んで、しっかりしたビニール袋にきっちり包み、それを冷凍庫の中にポン! もうその後は山に向かってまっしぐら、爽やかな北アルプスをたっぷり堪能してきました。

3日後、夜遅く家に戻ってリュックを下ろすと、郵便受けも覗かずに、何はさておき冷凍庫の中から版画を取り出しました。紙はコチコチに凍っていて、まるで石のようです。それを一晩かけてじっくり解凍し、翌朝仕事を始める時間になってから、そろりそろりと紙の具合を確かめると、バッチリ!完璧な状態です。湿り気があって柔らかく、摺るのにもってこいの頃合い。早速、作業を開始しました。色を擦り込むバレンに、紙はしなやかに馴染んできます。こうして、一週間とちょっとの作業を追加した後に、この作品が完成したわけです。

今皆さんのお手元にある版画が、まさか「冷た〜く」はないですよね。でも、今思い出してみるとおかしいですよ。僕がヨイショヨイショと山に登ったり下りたりしている間、版画はギュッと包まれて冷凍庫の中で大人しく待っていたなんて。昔の版画職人には、こんな虫のいい繰り合わせはできなかったでしょうね。

平成11年9月

デービッド