夏竹

今年の摺物アルバムには10枚を予定していますが、どうも遅れ気味です。この作品が5枚目なのに、今はもう8月ですから! 指を折って数えてみると、年末には追い込みがきつくなりそうです。でも、考えようによっては、このセットの最後の作品が12月に届かなくても構わない.....。1月に新年の絵が届くというのも、いい.......。

今月の絵の作者は、おそらくあまりお聞きになった事がないでしょう。谷文一といって、父親の谷文晁のほうが江戸時代の画家としてもっと知られています。当時とても人気があり、いろいろな手法を用いて描く器用な人でした。一方、養子となった文一は、ほとんど円山派の描き方をしたようです。残念なことに、32歳という若さで1818年に没しているため、あまり知られていないのです。では、どうして私がこの作品に出会ったかというと、それにはちょっとしたいきさつがありました。

私は仕事の都合上、旅行にはあまり時間を割けないのですが、時々は短い休みをとります。今年の春は、山中湖の近くにある忍野村に一泊旅行をしました。私の作品の収集家でそこに住んでおられる方が、富士の眺めがとにかく素晴らしいので、ぜひ来るようにということだったのです。早朝、雪冠を載せて真っ青な空にそびえる春の富士はやはり見事でした。でも、まもなく出てきた雲に隠れてしまったので、他に何か見物する所がないかと辺りを捜し始めたのです。そんな折に訪ねたのが、なかなかいいところでした。となり町の富士吉田にあって、私達を呼んでくださった方の知り合いが住んでおられる、とても古い家です。家の一部は遥か室町時代に建てられたそのままで、歩くと今にも床が抜けそうなほど老朽化していました。この家の主である槙田さんが芸術家なので、絵画や巻物などが家中のいたるところにあったのですが、その彼が広げて見せてくださった5枚続きの屏風には一目で魅力を感じました。

5枚の中4枚は1840年の夏、父親の文晁ほか3名が文一を偲んで集った折に描かれたものと思われます。でも、残りの1枚は、その22年前に生前の文一が描いたものです。事の詳細については知る由もありませんが、私は即座に文一の絵に心を引きつけられ、同行した人達が他の作品を見るために移動して行っても、座りこんでじいっと見つめていました。そうして見ているうちに、この絵を摺物アルバムに加えたら面白いのではないかと思い始めたのです。屏風の写真を撮って、その絵を版画にしても良いものかどうか、槙田さんにお聞きしてみると、快い同意が得られました。そうしてでき上がったのが、この版画です。

許可を得るのは簡単でしたが、墨絵を版画にするというのは.....濃い所から、ほとんど目に見えないほど薄い所までの濃淡。これを版画で表現するというのはかなり工夫の要る作業でした。ふつう、彫台に向う時点では、すでに、どこから手をつけていくのかがはっきりしています。たとえば前回の広重の作品のように、いつもは輪郭から始めていくのです。でもこの絵には輪郭がありません。どこから彫り始めたらいいのか? どこの部分をどの版に彫ればいいのか? 各々の版木にどんな濃さの墨を使うのか? ぼかしはどこに持って行こうか? 疑問が次々と湧いてきました。

満足のいく解決策をひねりだせたかどうか、あまり自信はないのですが、でき上がってみれば結構いけるし、自分では満足しています。ここでちょっと説明を加えておきますと、元の屏風はかなり大きく、版画にしたのは、そのほんの一部です。また、それを団扇の形に収めたのは私のアイデアです。こんなふうに、団扇の形に絵を入れるというのは、昔はよくしたことでした。買った人が切り抜いて団扇に張りつけ、夏の間使ったのです。さて、私のお客さんの何人がこれを団扇にするでしょうか?

こんないきさつのある「夏竹」が一世紀半もの眠りから覚めて、今こうして皆様の元にあるのです。 

平成11年8月

デービッド