娘と桜

  二枚目の摺物は、前回の北斎を数世代さかのぼった西川祐信の作品です。祐信は1750年に亡くなっていて、これは北斎が生まれる10年前にあたります。作られた場所の方も移動しています。今日よく知られている浮世絵は、ほとんど江戸で作られていますが、祐信は京都で活躍していました。浮世絵の出版活動は、初めのうちは上方の方が盛んだったのです。今回この絵の出典となった「絵本千代見草」も、1740年に大阪で出版されまた。

ところで、摺物アルバムの収集家のなかに「潔癖主義」の方が、いらっしゃいますか。そうなると、今月はちょっと困ることになるんです...。というのは、この版画は、色付きの錦絵の技術が生まれる20年ほど前の作品で、原作は墨摺り一色だからです。でも、よく考えてみると、これに色をつけるということはそれほどひどいことではないのです。たとえばです、現代の西洋版画家が、レンブラントのエッチングに色を付けて新しい版を出したとしたら、芸術界ではちょっと受け入れ難いかもしれません。でも、当時、日本の伝統木版画の世界では、かなりの部分が彫師や摺師の責任にゆだねられていたのです。実際、版画の元になるのは絵師の筆による粗描だけで、あとは配色を決めることさえも、職人に任せられていました。そう、摺師の役割は、バレンで紙をこするだけではなかったのです。

今回、この絵を選んだ理由は? いくつかありますが、なんといっても、私は祐信の絵がとても気に入っています。女性(この絵は少女ですが)の描きかたに気品があふれていて、とても好ましいのです。彼は現役時代にたくさんの絵を描いていますが、どの作品も優麗さに満ちているということで有名です。選んだもうひとつの理由は、以前の「百人一首シリーズ」の作風と関係しています。一般に、浮世絵に興味を持ち始めると、たいていの人は鈴木春信の作品に目を留めるようになります。春信が理想化した詩的情緒あふれる女性は、浮世絵の中でもとりわけ美しく、人々の心を引き付けるからです。でも、もうすこし絵の歴史を調べると、それ以前の西川祐信の作品も知るようになります。すると、鈴木春信の作風が独自に開拓されたものではない、ということに気付いてくるのです。春信の描く女性が、彼より年上の絵師と似た手法で描かれているからです。では、私が復刻した百人一首絵の作者、勝川春章とどう関係してくるのか? 勝川春章はこの一連の流れの中では、鈴木春信の後輩に当たり、初期の作品は春信と見分けがつかないほどです。ま、始めは誰でも先人の真似をして、少しずつ自分なりの作風を見い出して行くものですが。

余談ですが、この繋がりにもう一歩踏み込んだところ、勝川春章は西川祐信の隠し子であったとする研究者がいるのです。(こんな何百年も前のうわさを持ち出すのは、いけませんね)

今月の作品は、彫っている時にちょっと里帰りしたような気分になりました。なぜかというと、着物の流れるような線を彫りながら、慣れ親しんだ「縄張り」にいるような心地がしたからです。本当を言うと、先月はショックだったんです。十年間というもの、祐信や春信や春章といった人のものばかりを手掛けていましたから。この人たちの描く筆の線は細く優雅に流れて、すうっと尾を引くように消えるんです。でも、北斎の絵を彫り始めた時、十年間で身に付けた事全部を窓の外にほうり出さなくちゃならないような、そんな気がしました。皆さんは、でき上がった版画から、穏やかで静かな印象を受けましたか。きっとそうですよね。けれども私の方は、北斎の線に直面してそれどころではなかったのです。ちょっと前回の作品に戻って見てください。ごつごつして、ところどころ引っ掻いたような力強い線でしょう? きっと北斎はエネルギッシュな人だったんですね。この線の味をだすために、私は、今までとはまるで違った彫り方をしなくてはならなかったのです。これは良い経験でした。彫師というのは、北斎の絵を彫る時は北斎流の仕事をするので北斎になる、と言ってもいいでしょう。そして、祐信の絵を彫る時は祐信になるんです。

あと8枚、今年の残りもみんな違う原作者です。いい修行になりそうです。

平成11年4月

デービッド