デービッド・ブルが発行している季刊誌「百人一緒」に掲載された記事です。

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関健二さん

このコーナーを何年も書いてきましたが、訪問計画を立てながら、こんなことを考えたりします。「わざわざ会うために出かけて行って話を聞かなくても、おおよその見当で書けちゃうんじゃないかなあ」などと。おそらくこれを読んでいらっしゃる方達も同じように、題を見て導入部を読めば書かれている内容についての予測がかなりできてしまうのではないでしょうか。

もちろんそんなことはしませんでしたよ。いつだって前もって訪問をして、それから記事を書きますから。特に今回は、お訪ねして良かった例です。さて、ここでちょっと皆さんに概略をお話ししましょう。今回は、摺師の関健二さんを訪ね、どのようにして仕事を始められたのか、見習い時代からのことを中心に伺ってきました。では、話がどう展開するか予測してみてください。どのくらい当たるかな。

関さんは、何百年と受け継がれてきている伝統的な木版画の職人ですから、お宅は下町にあって.......あれっ、違う、東京郊外の八王子市にある新興住宅地のモダンな家にお住まいです。
 さて、中に入るとすぐに、畳敷きの仕事場があって......これも違う、和室でなく洋間で仕事をしてらっしゃる。
 部屋には低い摺台が置かれていて、....おっと、洋式の高い作業台を使ってらっしゃる。
 作業台の上には、浮世絵の、山桜の版木が復刻を待っている.....おっと、これも違いで、板はベニヤ、彫られているのは現代の風景画。おまけに、この作者は関さん!

物でいっぱいの仕事部屋には、腰を落ち着けるスペースがないので、階下のリビングルームのソファーでお話しを伺うことにしましょう。今回の訪問では、「百人一緒」の記事のためだけでなく、お聞きしたいことが山ほどあります。摺りに関する質問が沢山あるので、バレンや作品をそおっと鞄の中に隠し持っています。聞くチャンスがあるかな。

最初の質問は当然、関さんが始めたオリジナルの版画についてなんですが、いったいどうなっているのでしょうか。作品を何枚か見せていただくと、縁どり線のない、霧の掛かった夢の様な風景画です。大きさもあり、現代風に建てられた家には、装飾品としてよく合いそう。摺師の関さんが、こういった仕事を始めたのにはいくつか訳があります。ひとつには、版画が贅沢品な上に今の景気状況では、あまり人の気持ちを引かないので、ただ電話の前で版元からの注文を待っていても埒が明かないこと。伝統版画の分野では、目下のところあまり仕事がないからです。

もうひとつの理由は、彼自身、版画の創作を楽しんでいるということ。摺師というのは、版元からの仕事がたとえどんな作品であろうと、何も考えずにひたすら摺っていくというように仕込まれます。関さんはこうして仕事をしているうちに、バレンの下にできる絵を観察し、さまざまな手法を学び、いつのまにかデザインも彫りも自分でやれるだけの技術を吸収してしまったのです。

新分野へ踏み出すには、こうした技術が下地になっているのです。今や、私たちが職人に対して持っている固定観念を捨て、新たなイメージを膨らませる時が来ているのではないでしょうか。平成もそろそろ十年、日本の社会で起こった大きな変化が、隅々にまで及んできているのです。

こんなことを話しているうちに、彼の見習い時代のことについて聞く予定だったことを思いだしました。大変だったその頃をどう思っていらっしゃるか、お聞きすることにしましょう。
 「見習いが始まったのはまだ14歳の時でしたよね。きっと他の職人さん達がしたがらない雑用を全部したんでしょうね。何時間もかけて顔料を擂り砕いたり、和紙を切ったり、...」
 「いや、全然。皆、自分のことは自分でしたから。職人だもの。」
 「でも、単調な仕事はやらされたでしょう。鮫の皮で刷毛をおろすとか、...」
 「いや、そんなことないですよ。そりゃあ自分のはやったよ、親方だって、誰だってそうだったからね。職人だもの。」
 いろいろ聞いているうちに、どうも混乱してきました。僕が想像していた様子とまるで逆。そこで、「最初の仕事はどんなのだったんですか。包紙とか、簡単なものだったんでしょう。」と聞いてみると、
 「そんな事しなかったよ。私の親方はね、簡単なものはいつでもできるって言ってね。難しい仕事から入っていけば、どんな仕事でもできるようになるって考えの人だったんですよ。だから最初に与えられた仕事は多色摺りの複雑なのを百枚。結果は当然、どうにもならないものでしたよ。誰も、何も教えてくれなかったんですからね。」
 その百枚は、一体どうなったのでしょうか。
 「その仕事が終わるとね、親方は仕上がりを見てからすぱっと半分に切っちゃった、全部。それからまた次の仕事をくれたんです、また複雑なの。立派な和紙が駄目になってしまったんだから、そりゃあ真剣になりましたよ。だから、上達も早かった。」
 誰かが、教えてくれるようになったのかな。
 「十年間、誰も何も教えてくれないまま。人の仕事をじいっと見て、どうすればいいかはすべて自分で考えたんですよ。話を聞いったってわからない。体で覚えるんです。」
 これを聞くと、鞄に入っている、バレンのことを思い出します。でもまだ話しを持ち出す時期じゃないと悟り、「ところで、その当時いくらぐらい貰えたんですか。月に数百円ぐらいですか。」と質問すると、驚いたことに、
 「その通り。月五百円だったねえ。休みは、一日と十五日の二回だけ。」
 やっと、予想が当たった!そこで、「その二日間はまったくの自由だったんでしょう、映画にいったりガールフンドと出かけたり...」と畳み掛けると、
 「そんなことしなかったよ。刷毛の手入れをしたりバレンの作り方を勉強してみたり。だってお金は全部、道具を買うために貯めたから。人のを借りて仕事をしてたんだもの、返さなくちゃならなかったでしょう。自分のを全部そろえなくっちゃならなかったからね。」
 「なかなか、たいへんだったんですねえ。それで、何年も見習いをして、親方から独立の許可が下りたときは、うれしかったでしょうね。」
 「それがねえ、頑固なところのある人だったんでね、僕も頑固でしょう、最後が、うまいこといかなかったんですよ。結局十年後に自分から裸一貫で独立するようになってねえ。でもね、そのときにはもう、腕があったから。どんな仕事が来てもこなせたんですよ。なんでもね。」

さあ、そろそろいいかな。鞄を開けて、バレンを取り出します。バレンの包み方の一番最後、きっちり縛った竹の皮をそのままに保つようにするところが、うまく行かなくて困っていたものですから。何年も努力してかなりうまく縛っていたのですが、どうしても使っているうちに、縛っている紐が緩んできてしまうのです。関さんに渡すと即座に、「緩いな、これじゃ摺れないでしょう。」私は頷いて、しかたなく肩をすくめるのみ。

すると、突如.......返して、捻って、括って、ぐいと引っぱって、結んで。目にも止まらない早さで縛ばり直してしまいます。びしっと締まってます。すごい!まるでテレビで手品を見ているようでした。手の動きのブレを見ていただけ。「一体どうやったんですか?」

関さんはニコニコするだけ。そうか、話を聞いったってわからない。体で覚えるんでしたねえ。

関さん御夫妻は、私たちをとても居心地よくもてなしてくだるので、4時間近くも話し込んでしまいました。切りがないので、お礼をしてそろそろおいとまをしなければと片付けをはじめます。と、あることが閃めいて、鞄の中の作品入れから、去年の作品の一枚を取り出します。それは、空摺り(からずり)の技術を使ったものですが、実際のところ伝統的な手法がよく分からず、自分なりの方法を編み出してやったものなのです。結果は上出来でしたが、伝統的な物とはいくぶん仕上がりが違っています。さて、関さんに見ていただこうと作品を手渡すと、じいっと見て、そう、期待した通り。すぐに質問が来ました。「どうやったの?」

僕は、ニコリ、ニコッ、ニコニコッ!

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